お盆です。
僕自身はお盆回りとか、帰省が遠いとかが無いので、あまりお盆について意識しないけれど、
お盆について周りの人がしゃべっているのを聴くと、
「お墓参りはしんどい。でも親戚から頼まれているからやらないと仕方がない。
そうそう、お参りの時にお願いごとをしてはいけないんだよ、」とか、
「実家のお仏壇に供える品物にいつも悩む。自営業の親戚は高価な品物を毎年持ってくるんで、ちょっと困る」とか、
「実家が近すぎて里帰りした感覚がない。折角里帰りなんだからだからちょっとは距離感が欲しい」
とか、
聴いてるといろいろと突っ込みどころがあるが、「へーそうなんやー」ときいていた。
お供え物の話で思い出すのは、歎異抄のことば
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだそうらわず。」。
亡くなった先祖のために…と我々ができるコトはもはや「ない」のであって、
ということは、お供え物で先祖に、仏さんに喜んでもらうということはできない、と理解しているが。
じゃあ僕らに何ができるの?と考えたときに、思い浮かぶのは「恩徳讃」。
報ずべし、謝すべし…
ただ仏の願いに応える、感謝する。
それに逆らってお供え物で自分を苦しめ、消耗している僕たち。
先ほどの自営業の方は、親戚の手前、品物の質で先祖への念を周りの人にアピールしている
のかもしれない。
普段仏さんとのやり取りがないから、ここぞとばかりに気合を入れてくるのかもしれない。
「あんなに稼いどるのにケチなやつや」なんて思われたくない、と考えているかもしれないし、単に
生活レベルから反射的に選んだ品物かもしれない。お金があるということも大変だな。
批判する人も、高価なお供えをする人も、自分の方が先祖を思いやっている、
仏のお眼鏡に適っている、自分のほうが偉い!
という根拠のない驕りを持っているかもしれない(これは同時に仏を自分の価値基準で見ている)。
自分がベストを尽くせてないから、卑屈になって嫌味に映るのかもしれない。
なんて好き勝手に想像している。
しかしこれらは「僕がその立場なら」と考えたことであり、
つまり、僕の心の中に備わっている考えであって、今は行動として表面に出ていないだけ
とも言える。
僕の仏との関わりの中から自分の姿が見えてきて、はっと気づかされる。
そんなお盆です。仏さんありがとう。