生活の中ではすべてが上手くいくことなんて実はなくて、損を受けれる心が必要なんではないでしょうか。我を通すことは争いの元。
こないだ出会ったのは、握手イベントで割り込んで並ぶ人。あげく押した押さないで先に並んでいた人と喧嘩を始めました(40〜50歳くらいの男性ですよ)。
阿弥陀さんの慈悲の中にある人々だと考えれば、それもアリとなるんですが、
やっぱり腹たちます。
ここで自分のできる行動を考えると、
・自分が損切りする(気分が悪すぎるから握手を諦めて帰る)
・どちらかに加勢して叩き潰す
・収まるのをじっと待つ
どの選択肢も何かを手放す(諦める)必要があって、辛い思いは避けられないです。
「来るんじゃなかった」とも思いました。
「すべてはトレードであって、代償のない物事はない」
阿弥陀さんはそれを言っているのだろうでしょうか。
何か上手くいって見える裏には何かの犠牲があるのか。
そう理解することにしました。
結局僕はお察しの通りじっと耐えて待って、握手してもらったんですが、
あまりいい思い出にならなかったですね。
というかこの記事にするまですっかり忘れていました。
まあそんなもんだから何事もゲットするのに必死になりすぎる必要はないかもしれませんね。
…あ、でも嫁さんゲットするのには必死になりましたね!