幸せを受け止めきれない心

うちには4人の子どもが居ます。これだけ子どもが居ると、よその人からは

「大変やろ〜?」

と同情なのかなんなのかよくわからない声をかけられます。
そう来られるとつい、

「生活が〜」

などと生活苦をアピールしてしまう。我ながらしょぼい。

「賑やかでええなぁ」と言われると、「疲れます」と答えてしまう。

自分が望んだ結果子どもが生まれたんだし、さほど思いつめてはいないのに、何故か無意識に「苦労人」ぶってしまうのです。

「いやー嫁さんと子どもが好きでしょうがないんですよ」という思いが本心なのに、表に出せない。
幸せを素直に喜ぶのはどうも抵抗がある。

親鸞聖人のお弟子、唯円さんも念仏を素直に喜べない、なんて言ってたな。

第九条は、どうして念仏しても、経文にあるように躍り上がるような喜びの心がそんなに起こらないし、少しでも早く極楽浄土に行きたいという気持ちにならないのかという唯円の疑問に対し、親鸞が「自分も同じ気持だった」と自分自身の問題として引き受け、躍り上がるほど喜ぶべきことを喜べないのは実は煩悩の仕業とし、阿弥陀仏はそんな煩悩のある衆生を救ってくださるわけだから、煩悩がある自分たちの極楽往生間違いなしとしている。


出典:ウィキペディア日本版「歎異抄」より

煩悩が邪魔をしてるんですか。いや、どっちが煩悩なのかよく分からなくなってきますけども。

「躍り上がるほど喜ぶべきこと」…嫁さんと愛しあうこと、子どもたちと楽しく過ごしていること。
これを喜べないのは煩悩のせいだ、と。
妨げている煩悩とはいったいなんだろうか…?

相手の嫉妬を買いたくない気持ちでしょうか。相手の反応を伺う気持ち。
いい格好(ほんとか?)をしたい 気持ちが働いているのです。

他人が上手くいってるのは聞く人にとって面白くないのです。自分のマイナス面が引き立ってしまうから。

相手の反応を優先しすぎて、本当の自分を出せなくなってしまっていると思います。

「躍り上がるほど喜ぶべきこと」を素直に表現できたら。