歳とともに、褒められたり、楽しい話を振られても素直に喜んだり、盛り上がって話したりすることができなくなってきました。
我ながらつまらない大人になったもんだと思います。
楽しい話題を打ち消そうとする自分
こんにちは、oxygentukiでございます。
先日、こんなやり取りを初対面の人としました。
停めていたモンキーに乗ろうとしていたら、話しかけられたんです。
人「バイクで走ると気持ちええやろ〜!?」
僕「ええ、でも止まると暑いっすよ」
…なんですかこのやり取り。その人と別れてから愕然としました。
余りに、余りにつまらんバイク乗りです。
話しかけてくれた人がしたかった話というのはこんなのだったんでしょうか。
本当は「そうそう、風が気持ちいいですよ」と言えるくらい、気持ちいい経験もあります。じゃあなんで楽しい話に出来ないんだろう?
なぜ楽しいことの話を打ち消しして、僕は辛い思いをしている、という話に持っていくのだろう?
次の日。
違う人から話しかけられました。
人「あんたの家はさぞ広いからこんな時期でも涼しいやろ!?」
僕「ん〜でも冷房が全然効かないっすよ」
まただ。
うちは田んぼに接してる部分が多いし、古い家だから風通しが結構いいので、窓を開ければ朝夕は涼しさを感じることができます。まあ確かに暑くてどうしょうもない部屋もありますけど…
相手が楽しい話(バイクの風が気持ちいいとか、家が涼しいとか)を振り向けてくれているのに、なぜ自分は辛いこと、苦しいことの話にすり替えてしまうのだろう??
どういう心持ちで打ち消しの言葉を選ぶのだろう
というように、人と話をすれば、こんな否定的な反応ばかりが出てしまうのです。
こんなのおかしい。
いったいどうして?こんなことしか言えない僕になってしまったのでしょう?
考えられるのは、
- クールを装いたい…お坊さんたるものウヒョーイと調子にのらず、淡々としていなくては…本当かそれ?
- 耐え忍ぶ感じに見せたい…やっぱりお坊さんは忍耐と難行の積み重ねでないと!…うーん?
- お寺は裕福と思われたくない…お寺はいい暮らし、というのは幻想だとわかってもらいたい。
まあどれもあるっちゃあありますが…僕なりのお坊さんらしさを求めた結果なんでしょうか?底が浅いですねー書いていてなんだか恥ずかしいですけど…
「大変やねぇ」という慰めを無意識に求めている
お坊さんからは離れますが、無意識に「慰め」を求めているからかもしれないです。
よく、「お寺は大変やねぇ」「子どもさん多くて大変やねぇ」「長男はたいへんやねぇ」「仕事も大変やねぇ」…なんて言われ続けて来ました。
心からかどうかはわかりませんが、気遣いも感じるお声掛けですから、ちょっと気持ち良かったりもするんです。
それがクセになり、「慰め」を常に求めてしまう体質になっちゃってるのかもしれません。
バイク乗るのも大変やねぇと言って欲しい、古民家暮らしも大変やねぇといって欲しい。そういうクセです。
そう言われないと落ち着かない。
でも僕は本当は大変なことよりも、喜びををたくさん感じているはずなのに…
お寺のボンというプレッシャー。僕は仏様に「見張られている」のか?
お坊さんの話に戻ると、「お寺の子だから大人しくしなければいけない」
というプレッシャーはずっと心の奥底にありました。
だから幼少の頃からそれなりの振る舞いをしてきたと思ってます。
「賢いなぁ〜さすがお寺の子やわ」
という評価はたくさんもらって来ました。
別に何にもしてないですよ。ただ我慢して、大人の言うことを聞いて、じっとしてただけです。
だからでしょうか?こんなにむっつりなのは。
そう思うと、お寺は救いというよりは、僕に対する制約として働いていたなと感じます。今までは。
仏教は僕を縛りつけない、ということに頷く。
仏教を知るうちに、仏教はそんな風に人を縛り付けるためのものではない、むしろ逆だ、ということがだんだん解ってきましたが、まだ「こうでなくてはならない」という気持ちは抜けていないようです。
自分自身の本心を素直に表現し、のびのびと生きたい。みんなと共に、素直に喜びたい。喜べない人には喜びを感じてもらいたい。のびのびと生きて欲しい。
くせ退治は長引くかもしれませんが、自分と向き合って、明るい方へ歩んで生きたいと思います。